2024-05-27 オススメの本 独ソ戦 独ソ戦の性格と終戦の残酷 この世において「地獄」でない戦争は存在しないのかもしれませんが「独ソ戦」(1941-1945)は軍事的な合理性をすら失い「世界観戦争」(絶滅戦争)にまで変質して行ったという点において最高度に「地獄」的な戦争でした。それが読了していちばんの感想であり本書の核心と申し上げてよいかと思います。著者は新史料(あとで述べます)に基づき軍事的な「経緯」のみならず独ソ戦の「性格」を正確に論じています。一般向けの新書として白眉と思います。上記の著者の結論は「終章」において詳述されます。戦争をその性格上①通常戦争②収奪戦争③世界観戦争(絶滅戦争)の3つに分類し独ソ戦の時間的な各段階において①、②、③がどのような相互関係にあったのかを「模式図」で示したものが掲載されています(p.221)。数学の集合論や論理学で多用される「ヴェン図」(ベン図)をイメージしていただけると幸いです。要するに3つのマル(円)の相互関係です。ちなみにジョン・ヴェン(1834-1923)は英国の数学者・哲学者でいわゆる「ヴェン図」を導入しました。独ソ戦は①通常戦争、②収奪戦争、③世界観戦争(絶滅戦争)の3つが並行して始まり最終的には①と②が③に完全に包含されてしまったことが模式図から読み取れます。そして「通常戦争」が「絶対戦争」に変質して行っていたことが示されています。個人的には父祖から耳で聴いた戦争の地獄と言えばたとえば・ノモンハン事変(1939)・ガダルカナル島撤退(1943)・インパール作戦(1944)・レイテ戦(1944ー45)・硫黄島の戦い(1945)‥などを連想します。このように旧日本軍の「地獄」は例えば、敵の圧倒的火力の前に無力感から精神的失調をきたしたりあるいは、兵站(補給)の不足・欠損による飢餓や餓死のイメージが強いのが特徴と言えるかもしれません。これらに対して独ソ戦はヒトラー(1989-1945)に代表される「劣等人種」(ウンターメンシュ)を絶滅し「東方」にドイツ民族(アーリア人)の「生存圏」(レーベンスラウム)を獲得する‥というナチス・ドイツ側の世界観とスターリン(1878-1953)に代表される「不可侵条約」を一方的に破棄した「ファシスト」の侵略をソ連邦の諸国民が撃退して「共産主義」イデオロギーの優越を示した‥というソ連側の世界観の激突でした。この「世界観の激突」を通奏低音として本書は書かれていると思います。独ソ戦の「性格」の話が長くなりましたが軍事的な経緯やディーテイルについても本書は「実証的に」詳述されています。「実証的に」と強調しましたのはこれまで独ソ戦について記述された一般向けの本の中には誤った史料に基づいて書かれたものが少なくなかったからです。さらに1989年に東欧諸国が解体し1991年にソ連が崩壊してから多くの新史料が見つかりましたがそれらが記述に反映されることなく標語的に申し上げれば「1970年代の水準で止まっている」記述が(特に日本における)一般向けの本では多かったことは否定できないようです。本書によりますと例えば独ソ戦に直接の関係はありませんがヘルマン・ラウシュニングの『永遠のヒトラー』(天声出版 1968)はヒトラー語録・ヒトラーとの対話というふれこみでしたが現在では偽書(つまり捏造)であることが判明しています。あるいはまたフランス人を連想させるペンネーム「パウル・カレル」で多くの戦記物を書いたドイツ人パウル・カール・シュミット(1911-1997)につきましては2005年ドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツがパウル・カレルの伝記を上梓し体系的な批判を行いました。カレルの基本的な主張は「第二次世界大戦の惨禍に対してドイツが負うべき責任はなく国防軍は劣勢にもかかわらず勇敢かつ巧妙に戦った」(はじめに ⅷ)でした。つまり現在の視点からみると明らかにまちがっていたので「歴史修正主義」(同)です。その結果2019年現在、母国ドイツにおいてパウル・カレルの著作は「すべて絶版とされている」(はじめに ⅹ)と著者は指摘しています。カレルの捏造(実際には存在しなかった事象を記述すること)について具体的な記述が「はじめに ⅸ」にあります。新約聖書「使徒行伝」第9章18節の表現を借りるならば「目からうろこのようなものが落ち」る思いを読了後にしましたのは上記のラウシュニングやカレルに対する現在の世界標準の評価だけではありません。いくつか順不同で挙げてみましょう。・ドイツ国防軍はナチスによる犯罪・戦争犯罪(SSによるジェノサイドなど)に関連して決して無謬(むびゅう)ではなかった。・そもそも独ソ戦はヒトラーの「世界観」によってのみ起こされたのではなくドイツ国防軍も軍事的な観点から「対ソ戦やむなし」と考えていた。・ドイツ陸軍総司令部(OKH)が立案した対ソ作戦は1)敵を過小評価し2)我が方の兵站能力を無視したずさんな計画だった。・ドイツを含む中央ヨーロッパの鉄道が標準軌であるのに対しロシアの鉄道は広軌であるからドイツ軍にとっては線路のレールの幅を変える工事をしないと鉄道による輸送はままならなかった。(ナポレオンの侵攻を教訓に二度と侵略されないようにロシアはわざと鉄道の軌道の幅をヨーロッパと違うものにしたとする説を聞いたことがあります)・「電撃戦」(ブリッツクリーク)というコトバはそもそも宣伝・啓蒙当局あるいはジャーナリズムが使い始めたもので軍事用語ではなかった。・「ドクトリン」という軍事用語があり重要な概念である。・史上最大の戦車戦と言えば「クルスク会戦」(1943)(の中の「プロホロフカ」の戦い)という定説があったがソ連崩壊・冷戦終結後の新史料による研究が進んだ結果独ソ戦の初期において既に大規模な戦車戦が展開されていたことが明らかにされた。参加した戦車数がクルスク(プロホロフカ)を上回る戦車戦があったことが判明している。ひとつの例は「センノの戦い」である。‥上記のように私にとりまして「目からうろこのようなもの」を挙げて行くときりがないくらいです。振り返ってみれば・1989年11月 ベルリンの壁崩壊それと並行あるいは続発する東欧諸国の解体・1989年12月 マルタ会談(冷戦終結を明記)・1990年10月 ドイツ統一・1991年12月 ソ連邦崩壊という歴史的事象を私はリアルタイムで見聞きしていましたがその結果多くの新史料が公開され独ソ戦を含む第二次世界大戦に関する研究が飛躍的かつ画期的に進んだという事実を今、実感しています。ヒトラーの伝記(あるいは第三帝国史)ひとつとってもソ連崩壊以前にアラン・バロック(1914-2004)ウィリアム・シャイラ―(1904-1993)ヴェルナー・マーザー(1922-2007)ヨアフェム・フェスト(1926-2006)ジョン・トーランド(1912-2004)‥などの著者たちによる特色ある書物が出版されていました。それらに加えソ連崩壊後の新史料を踏まえたイアン・カーショー氏(1943-)の大著『ヒトラー(上):1889-1936 傲慢』(白水社 2016)(原著 1998)『ヒトラー(下):1936 -1945 天罰』(白水社 2016)(原著 2000)が出版されいわばヒトラー伝の「決定版」となった観があります。上下二段組で本文に限定しても(上)が 611ページ(下)が 870ページあります(重さはどちらも軽く1キロを超えます)。とりあえず一度目を通しましたがなにしろ大著ゆえに細部まで読みこなすのは時間が必要です。独ソ戦についても的確な記述が多々あります(特に下巻)。カーショーの大著に比べると逆に一冊の「新書」という限定された舞台で独ソ戦を記述するという行為は別種の困難さが伴なうであろうことは容易に分かります。材料を取捨選択し文章の論理的構造を組み立てかつ読者が(研究者ではなく)(私を含む)一般人を対象とするという配慮をする必要があります。従って本書は一冊の新書で独ソ戦をコンパクトにしかも本質的に記述した労作ということができると思います。付録の「文献解題」は次に読むべき本の指針となりますし「略称、および軍事用語について」「独ソ戦関連年表」はよくまとまっていて使いやすいです。 独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書) 作者:大木 毅 岩波書店 Amazon